パース通信広瀬寿武小説集                                                   
作品 五 心の雫

  浜松駅の角張ったビルと対象的に,カラ−モザイクのタイルを張り詰めた
歩道は足に優しく,隣のデパ−トに続く.私鉄との乗り換え口に急ぐ人波,
デパ−トに吸い込まれる流れ,夕時一日の疲れと,終わりの安堵が足の早さ
を決める.
 地下道への通路を背にしてギタ−を抱えビ−トの早い曲を顔で表現してい
る若者.それを囲んで体をくねらせ手拍子を打つ同世代の男女.
大人は騒々しさを避ける様に横目で通り過ぎる.
 デパ−トの外れ,そこはまだ駅前広場の一角だが,あの若者達の音に邪魔
されない距離.やっと明かりを感じ始めた街灯の下で,アコ−デオンを弾く
老人に人々の興味が止まった.
白髪に僅かな黒が交じり肩まで伸びた汚れを感じさせる髪,不精としか言い
様のない髭,膝が煤けたGパン,襟と袖口が切れ着古したデニムのシャツ,
底が薄くなった靴.古いアルミ管の椅子に腰を浅く乗せ背をただし,目を閉
じたままアコ−デオンと一体化した無心な動き.異様な風体に目を引かれ足
を止めていた違和感が,奏でる者と曲の中に融合して行く.シャンソンに続
きスロ−ジャズ,ロシア民謡,聞かせていると言うより自分の好きな曲を気
ままに続け,帰りかけた人の足を又戻す.一曲ごとに増える拍手にも無関心,
二十曲ほどの演奏が終わると首を夜空に向け,不精髭に覆われた口を大きく
開けて息を吸い込む.囲んでいる人には目もくれず,背を向け片付けると
キャリ−に楽器と椅子を括り付け,左足が不自由なのか重く引き摺る様に,
体を揺すりながら私鉄の方向へゆっくり消えて行く.
「音楽とは似ても似付かない感じの人なのに,つい聞いてしまったわ」
「初めてよね見たの.明日も来るかしら」人々の会話に余韻が残っている事
を老人の背中は知って居るのだろうが、何の関心も示さない孤独な歩み。

四月の末,汗ばむ日中に比べ夕暮れの風は快く肌を冷やす.
老人が演奏し始めて一週間,相変わらずの風体で,奏でる音色にも変わり
は無いが,聴衆の中に少しずつ変化が有る.
老人の視覚の中に二日前から,同じ場所に演奏の終わるまでいる,老婆の姿
が有った.

宣伝部の美香に誘われ昼食に出ようとした時,武司が声を掛けて来た.
「昨日,出張の帰りに駅前で変な爺さんを見たよ」どう変なのか武司の大袈
裟な手振りで想像出来たが,音楽の部分になると真剣になった.
「楽器はケ−スから察しても古いが,音がと言うより音楽が良い.
音にフィ−リングが有ってその場を離れ難く最後までいたよ.一度見に行って
みないか」
「見に行くのか聞きに行くのかどっちよ」
「両方だ,風体を見て音を聞く」
武司と俺は勤務する発動機会社で音楽の同好会に入っているが,転勤や結婚で
辞める者が増え,現在は数人,廃部同然になっている.
一年ほど前から二人で月,一,二度駅前広場に出て聴衆を意識する楽しみを覚
えた.エレクト−ンを弾く美香を誘ったが,恥ずかしいと断られた.
俺はサックスとフル−ト,武司はシンバルにドラムのセット.出身地は違うが
中学時代からやっているので,音楽的には理解し合える.
「見てみたい」興味を体で示す美香に「聞いてみたいだろう」と武司の誘いに
俺の気持が誘われた.

連休を当て込んだ売出しの垂れ幕が遠州の風を含んで,人の足を誘う様になび
く.雑音混じりの風が消え,鍵盤の細い音色が途切れ途切れに舞って来る方向
の人垣に,流れが引っかかる様に止まる.
「あそこだよ」耳を撫ぜる音色が胸に届く距離に立ち,夫々の形でリズムを取る.
一曲毎に動く人垣に減る様子が無い.何が魅力なのか.人の足を引き留める難し
さを経験済の俺達には無い「何か」が有る.通り過ぎる一瞬に足を止める.
そして一曲,二曲目が終わるのを振り返りながら立ち去る.風体と音色との違和
感に興味を示したとしても「アコ−デオンの演奏だけで」と.
武司も同じ事を思っていたのか
「音楽が違うんだな,俺達とは」
「音楽と言うより音そのものが感情って感じ」美香の言う事に頷ける.
「そうだよ,テンポ,曲のリズム全てが感情のままだ.その感情が聴衆を食って
しまう,まさに爺さんの世界だ.爺さんだけの音.俺達だけの音って何かなあ」
「あのテクニックが音色を調和させている.一緒に演奏をしてみたいが,武司,
お前,話して来いよ」
「俺が!どうしてそうなるんだよ!」
「お前の人徳」
「それにしてもあのお爺さんって,どんな人だか興味が有るわね.私も直接お話を
してみたいわ」美香は老人の人生に興味を向ける.

 連休明けの事務所の中は,何となく絞まりが無く時間ばかり気になる.日当た
りの良さも有って初夏を思わせる暑さに,生欠伸を抑える苦労が続く.タイミング
良く武司からの電話で救われた.営業の武司は気兼ね無く自由に席を離れる事が出
来るが,総務の俺はさぼるタイミングが難しい.
「お前,豊橋から何時帰って来た?」
「昨夜,お前も岐阜へ帰ったんだろう」郷里の話などお互いに興味は無い.
「爺さんの事だが,一昨日帰って来て直ぐ行ってみたよ」「それで,どうだった」
「まあ聞けよ,時間が一寸早かったので爺さんを待っていると,例の格好でやって
来たよ.のっそりと支度をして始まるかなと思ったら,肩を揺らし足を引き摺って
俺の方へ来るじゃないか」「武司,お前何かしたのか」
「そうじゃない,俺の後ろの方に植木が有り,その側に座るのに適した石が有る.
そこで三人の餓鬼が騒いでいたんだ.文句を言うのかなと思っていたら,どうした
と思う?」
「知るかそんな事,先を言えよ」
「驚いたよ,・・そこはあの婆さんの席だから退いてくれ・・って俺の側にいた歩
行器を持った婆さんを指した.渋っていたがそそくさと立ち去った餓鬼を後目に,
婆さんを座らせ,何事も無かった様に演奏を始めた.その時,婆さんと爺さんの関
係を想像して最後までいたが,爺さんは婆さんには目もくれずに消えて行ったよ.
婆さんもおばさんみたいな人に支えられていなくなった.何だか気が抜けた感じが
した.でもあの婆さん,俺達が行った時も見た気がするよ」
「何だそれだけか.どうして話をしなかっんだ」
「そんな事が出来る雰囲気では無かったよ.恐いと言うか威厳を感じて,俺の方に
余裕が無くなったのかも」武司の言う事に生返事をしていると「まあ良いや,どう
だ,爺さんの後ろで勝手に合わせてみようか.話をするより早いかもしれない」
「だけど,あのフィ−リング,呼吸は難しいぜ.リズムばかりかメロのコ−ドだっ
て簡単ではない」
「そうだが,やれない事もないと思う」
「怒られないかな」「その時はその時だよ.上手くいったら面白いぜ」
老人の持つ音の魅力が体を擽る.
 
入社して五年,友人達が人生を築き始めているのに,未だ趣味に興じている二十七
才の年を気にしていない訳ではないが,仕事が終わるとつい楽器を手にする.
何人かの彼女は男の将来性を敏感に感じたのか,気が付くと側には誰もいない.
最近,美香とは良い感じで仄かに期待しているが,先は分からない.
武司も営業庶務の鈴子と付き合い始めたと,時たま練習に連れて来る.胸も腰も大
きく足もふっくらとした大らかな感じは武司にぴったりだ.俺の感じではきっと上
手くいくと思う.
 一週間が過ぎ二回の練習に二人の彼女も顔を出し,美香は音作りに,音楽はどう
でも良い鈴子は雰囲気作りにと協力をする.
「これで明日やってみよう」
「自信は無いけど,やるっきゃないか」
「大丈夫よ,私達も行くから頑張って」
実を言うと俺も自信なんか無いが,美香に格好良い所を見せたい見栄が気持ちを華
やかせる.武司の不安が乗り移らない様に自分を奮い立たせなければ,どうにも恐い.

早る気持ちと反対に動作がもたつく.爺さんより先にと思っていたのに先を越された.
三メ−タ−近く,爺さんの斜め後ろ,武司がもっと前へと背中を突くが足が進まない.
「あそこにいる婆さん,あれだよ」
「ああ,そう言えば前にもいたな」気を他に逸らす事で少し緊張が和らいだ.
武司はドラム,シンバルの簡単な組み立てを始める.俺もケ−スからフル−トを取
り出そうとした時,回りの空気を吹き飛ばす様なフォルテからタンゴが始まった.
切れの良いリズムに意表を突かれ,ただ呆然と聞き入った.
二曲目,静かなワルツ.
「リズムは取れるけど,入るタイミングが難しい」俺もどのフレ−ズで音を取るか呼
吸とフィ−リングに戸惑う.
「二,三曲聞いてみよう」
武司がリズムを撫ぜる様に刻む.恐さに震える自信のないタッチ.爺さんに聞こえて
いるだろうが何の反応も示さない.俺も試みようとしたが舌がヘラに馴染まず,どん
な音が出るのか不安が先立つ.
「一寸待っていてくれ,すぐ戻るから」地下街の階段を下りる俺の後ろから美香が追
って来た.「どうしたの」「音の調整」舌が乗らないとは言えない.壁に向かって吹
いた音で調子を計った.
「大丈夫か」と目で心配する武司にOKのサインを出す.「次,いくか」のサイン.
背筋に身震いが走る.
何と「童謡」.イントロでコ−ドをしっかり掴んだ.
武司のリズムがフレ−ズの出だしを知らせる.
俺の音を聞いた爺さんの首が僅かに傾いたが,アコ−デオンの音色に変化は無い.
メロに乗っていた爺さんの音が俺を誘う様に引いた.気がつくと俺の音が前に出てい
る.俺が引くと爺さんと,音が掛け合う.武司のリズムが自信を取り戻した.呼吸が
合った瞬間の感動.演奏する者だけに通じる感情.爺さんも感じているのか,だが何
の反応も示さない.爺さんの髭面が余りにも静かで印象的だ.拍手の中に美香と鈴子
の笑顔が見える.
「やった!」
それから七曲,武司は完全に爺さんの呼吸を掴んだが,安定しないでふらつく俺の流
れは爺さんのアドリブで助けられ,どうにか音楽になった感じで終わった.
「勝手な事をしてすみません」かたずける爺さんに何か言われるのを覚悟で,恐る恐
る声を掛けた.ぼさぼさの白髪頭をかき上げ振り返ったが,何も言わない.
例の婆さんが歩行器を押しながら付き添う女性と側に来て,だまってス−パ−の袋を
置いていった.爺さんはちらっと見ただけで支度が済むと袋を掴み帰りかける.
「どうなっているんだ,唖でもないだろうに.しゃべるのが嫌なのだろうか」婆さん
も爺さんも無言,俺の言葉にも無言.
だが空気に思う程の違和感がなく,深層の何処かで繋がる何かを感じる.その「何か」
は解からないが.
「また,一緒しても良いですか」掛けた声に一瞬,歩みを止めたが,すぐ歩き出した.
大きく揺れる体が私鉄のビルに消えると,緊張から開放され喉の渇きを覚えた.
「どう思う」「ううん,爺さんは案外俺達を受け入れてくれたんじゃないか.だって
お前の与太った音には俺もはらはらしたが,爺さんが音楽にしてくれたじゃないか.
俺の呼吸も計ってくれた」武司の言う通りだ.
「それにしても,あの人は現場を踏んでるな.プロだよ,きっと」力の違いに尊敬す
る気持が湧き,人なりを想像する.風体は異様だが音楽の中に人生の魂を感じる.
美香は爺さんへの興味をより強くしたが,俺達は爺さんの奏でる音の魅力に引かれた。
だがどうやって俺達の気持を伝えたら良いか分からない.頑に無視する後ろ姿に途惑
うが,執着する気持も押さえられない.その上を消化し切れない不満が撫ぜる.

 武司の仕事の都合も有って五月の末までに,二回爺さんの後ろに立った.武司は爺
さんの呼吸が確認出来る横まで近づいたが,あとは何も変わらない.爺さんの呼吸に
必死で合わせ,時折の思い遣りにほっとする.
「有り難うございました,又御願いします」返事は無い.婆さんの差し入れにも無言.
だが,俺達は満たされ興奮の快感を得た.
 美香と立ち寄った居酒屋で,俺の興奮は舌を軽くした.
「ねえ,そんなに楽しいの?」
「どうして?可笑しいか」
「そうじゃないけど.でも・・・」「何だ」
「貴方の年だと,もう三年もすると係長でしょう」「そうだろうな,それで」
「二人が駅前で演奏している事は会社でもみんな知っているわ.趣味だからとやかく
言わないけど,上司の目は厳しいわよ」
「仕事を蔑ろにする無責任な事はしていないよ」
「それは解かるわよ.でも,会社は必ずしも貴方と同じ考え方をするとは限らないわ.
真面目にやっていても昇進の査定に,つまらない事が影響するって話を聞いたわよ」
二十五才に間近な美香の言葉は,俺の腹の底でくすぶっている毒を抉る.
オ−ディションを受け,プロの道に進む夢は捨てた積もりでいるが,仕事と趣味の境
に有る,割り切れない甘さを鋭く突く.
「父も地元の小さな銀行勤めだけど,会社はそんなに甘くないって言っていたわ」
「お前,俺の事を話したのか」
「悪かった?」
「別に,でもどうして?」
「意味は無いけど・・.私達って何なのかしら,恋人,友達?もうじき二年よ」
今までの経験で女との付き合いに臆病になっていた俺にも,美香の気持が伝わる.
美香は人より秀でた美貌や容姿を備えてはいないが,俺には安らぐ女だ.音楽の話も
合う.何より甘い俺に厳しい所が良い,腹の立つ事も有るが.
 美香を送る車の中で引き寄せた唇の柔らかい感触.拒否されない感動に夢中になり
胸の膨らみを弄る.「駄目!だめよ」
この夜,何かが変わる予感を強く感じた.

今年の梅雨は雨量を期待できない,から梅雨になる恐れが有るとニュ−スで報じられ
ていたが,予報通りで連日,水瓶の水量を伝えている.そうかと言って,雨が降らな
いわけではない.雨量が少ないだけで,気紛れに薄い雲が雨を降らせ通り過ぎる.
 あれから二週間が過ぎ,美香に抉られた気持を押さえていたが,フル−トを持つと
どうにも落ち着かない.人前で演奏する時の麻薬みたいに染みついている快感を美香
には話せない.
掴みかけた恋が消えてしまいそうで不安だ.美香の急用で,デ−トが流れアパ−トに
帰るのも侘しく,武司の携帯に連絡したが応答無し.
「携帯切りあがって,鈴子と一緒かな」
何時のまにか駅前広場に足が向いていた.
雲間に星が見え隠れし空模様が不安定だが,それでも蒸していた日中の空気に変わっ
て夜風が爽やかさを運ぶ.
それに乗って爺さんのアコ−ディオンの音波がタイルを這って来る.この時期,咄嗟
の雨に楽器の移動は爺さんには無理だと思って,もしかしてと不安半分だった俺の足
を早めた.涼しさを求める人も交え,それぞれにリズムを取って楽しんでいる.
確かに静かな安心感は有るが,焦燥感と言うか,淋しさと言うか,説明の付かない気
持に俺は音を楽しめない.回りの目が爺さんを賞賛しているように見え,背筋が落ち
着かない.
「爺さんの側に立って,同じ拍手を得たい」馬鹿化た見栄だが,自己満足の痺れを十
分知ってしまった俺を駆り立てる.
「やろう!」踵を返した先に,首を傾げ眠る様に聞き入る婆さんの姿がふと気になっ
た.爺さんの音に融ける様な深い安らぎと郷愁を感じている様にも見える.
音に魅入られてか,爺さんの知り合いか,何時もの場所に居る姿を見ると不思議に安
心するのは爺さんも同じなのかもしれない.

「武司,今夜か明日,都合付くか」
「今夜は駄目だが明日なら,でも明日は雨だぞ」「雨なら中止だ」

昼休み美香と一緒だったが,その事は何となく言えなかった.恋より趣味を選ぶと言
う大袈裟な事ではないが,先夜の場面に自分の姿を置く想像には魅力が有った. 
三日間,愚図ついた雨が続き広場に行くのがのびのびになり,胸に秘めた気持が外に
出る.
「どうしたの,仕事で失敗でもしたの?」美香の心配に返事が出来ず,誤魔化すのも
面倒だ.仕事で優位に立つ男が恋人で有れば,女の虚栄も満足する事は俺にだって解
かってはいるのだが.
 
月曜日,雲間に星が見えるのに,空気がどんよりとして肌がべたつく.雨は無いだろ
うと予測して来たが,はたして爺さんは来るのだろうか心配だった.
「どうする,セットするか?」武司も爺さんの来る方向を振り返り落ち着かない.
「うん,あの人も雨を気にしてるのかもな」
「おい,見てみ,婆さんが来たぞ」
「本当だ,大丈夫だわ.今に必ず来るよ」
婆さんとの関連に何の確証も無いのに,音の仲間意識みたいなものが連想に繋げる.
「来たよ」近づく姿に緊張が高まる.
「今晩は」「よろしくお願いします」無表情のまま無視する様に支度をする.
武司が横腹を突く.
「大丈夫,やろう」目で促す.
俺達の支度が終わらないうちに激しいイントロでタンゴが始まり,意表を突かれた.
呆然と聞き入ってしまう.呼吸もリズムも爺さんの思うがままの表現.テクニック
もメロディ−を新鮮にする.ワルツからルンバ,スロウ−スイングになったのは八
曲を過ぎていた.
「俺達に意地悪をしているのだろうか」と爺さんの選曲を疑いたくなった.それで
も武司は必死にリズムをとり俺を気遣う余裕はない.
爺さんのアドリブを追う様にやっと音を出したが,のる迄の時に焦りを覚え音色が
掠れる.
無我夢中でやっと体がメロにのった時には終わりになった.帰り支度をする爺さん
の側に婆さんと付き添う女が来る変わらぬ終わり.
無言のまま帰りかける爺さんにに声をかけた.
「今日は足を引っ張って,どうもすみません,又お願いします」「お願いします」
「勝手にすれば良い」口籠る低い声.判断に迷い,二人で顔を見合わせている内に,
影が小さくなった.

七月,真夏の暑さが急激にやって来た.内勤の俺は良いが営業に出る武司はぼやく.
「小さな営業車はク−ラ−が無いんだぜ,想像できるか,この暑さを」
「かわいそう!でも仕事だから頑張って」鈴子の恋う優しさが武司を慰める.
「ク−ラ−の中に居るのだって楽じゃない,たまには外で羽根を伸ばしたいよ」
「武司さんに比べると貴方はいいわよ,贅沢を言うと罰が当るわよ」美香は優しく
ない.
「そうだよ,これで給料が同じだと言うのは納得出来ない.せめてボ−ナスで差を
付けてもらわないと」
「ねえ,ボ−ナス出たら四人でどっかえ行かない?」「ああ いいな,どうだ?」
鈴子と武司の息が合う.俺は美香を見た.
「あらどうして私を見るの?」
「別に.俺も行っても良いよ,美香は」
「私もどっかへ行きたいわよ,でも,貴方はストリ−トミュジシャンに未練が有る
んじゃない?」美香に話さず彼女の気持ちを無視してまでも広場に出ている事に不
満を隠さない.
「ストリ−トミュジシャンか,あれもやっている時は結構楽しいよな」武司が笑う.
「爺さんについて行くのは結構きつい.でもやりがいが有り俺も楽しいよ」 
「楽しいのって良いじゃない,武司さんのはしゃぐ姿は,子供っぽくって好きだわ」
「楽しいのは良いわよ,でもね,下らない事かも知れないけど 男の人には将来っ
て言うか,会社の中での立場も考えないと.やっている事が悪いって言ってるんじゃ
ないのよ.間違わないでね.私だって貴方達が生き生きしているのは好きだわよ.
何時までもそう出来たら良いわ」
「それはそうよね,会社の組織や人間関係って,変な所で難しいわよね.子供っぽ
い事をしていると出世が出来ないかも」
美香の胸の内を探れない若い鈴子の言葉は,屈託がなく実に率直だ.

人間の幸せは金では得られないと言うけど,ボ−ナスが出た実感は,それなりの幸
せ感が有る.鈴子の執念で伊豆の貸し別荘も取れ,七月末,三泊の休暇が決まる.
「土曜日の午後,買い物に付き合って」料理,エアロビックス,コンピュ−タ−教
室と忙しい美香との久しぶりのデ−ト.
美香の寄り添う心を肌身に感じ,俺の美香に執着する気持と重なる.操られ支配さ
れている様に思うが,堪らなく愛しい.「大切な女」を心に深く意識する幸せ.
 日中の暑さを避けてだが,女の買い物に付き合うのは忍耐と寛容の一言に尽きる.
「大切な女」と我慢の綱引きは俺の負け.
「夕食,何がいい,私とんかつが食べたい」
買い物袋を抱え駅前ビルの四階.店内は満員に近い.生ビ−ルが疲れを癒す.
「これ,貴方とペア−ルックよ」
「いい年して格好悪いよ,武司に笑われる」
「年,関係ないわ,それとも私とペア−じゃ嫌?まだ有るのよ.これ!パジャマ」
「ええ!何時着るんだ」「伊豆の別荘で」
「恥ずかしいよ,深い恋人同士みたいで」
「あら,私が恋人じゃご不満!なら良いわよ,他の人に上げるから」
「馬鹿!不満なわけ無いだろう.好きな人が他にもいるのか?」
「いたらどうする?」苛める目.
「嘘よ,でもお見合いの話しや言い寄る人も結構いるんだから.二十五だもん」

気儘な人の歩みの間を夜風が縫って流れ,雑音に交じって若者のロックのリズムが,
ビルに木霊する広場.
「ねえ,どうする?お爺さん来てないけど,待つ?」
「どうして?」
「だって聞きたいんでしょう?」出来たら聞きたいと思っていたが,素振りを意識
して押さえていた.
「良いのよ,隠さなくたって.私も一緒に聞きたいわ.ほら,お婆さんも居るよ」
植木の手摺に腰を掛け,美香の気持を計りながら待つ.「来たわよ」
 音の響きに止まった足,輪が出来てそれが一曲毎に形が変わる.人の気儘な行動
は何かに引き寄せられた虫が集まり,飛び立つ様と似ている.
爺さんの音色が,舞い上がる幻と共に夜空に吸い込まれて行く.
俺の手に柔らかい手が重なり美香の顔を見た.
目に溢れた涙が膝の上の紙袋に落ちる.
「どうした?」
「何でもないの,ただ,何となく.変ね.お爺さんの音色を聞いていると胸が詰ま
って,何だろう.あの音色はとっても深いわ,激しくて,寂しくて,悲しくて,
辛くて.きっとお爺さんの,弾き手の人生が溢れた音よ.だから聞く人の人生にも
何かが伝わって来るんだわ.弾く人と聞く人との人生が胸の中で交わる瞬間,一種
の感動かしら.あのお婆さんも,自分の人生を音の中に懐古しているのかもね.私,
今わかったの.貴方達があそこで演奏したい気持ち.ごめんね,つまらない事を言
って.これからは応援する」
美香がこんな素晴らしい女だったとは,俺は迂闊だった.社内での俺の立場を思い,
そして今俺を理解しようとする.爺さんの人生感溢れた音に涙を溜め,感動したと
は言え.
いや,爺さんのお陰だ.身が震える熱くなる.
感動はその夜の内に武司に伝えた.
 
夕暮れになっても暑さが納まらない.武司の汗はTシャツを濡らし人目にも解かる.
俺の額の汗も首に滲みて襟が熱い.だがそれを気にする余裕がない.
爺さんのレパ−トリ−が来る度に少しずつ変わり,スイングする時は俺のフル−ト
を誘う.必死に追っかける.
「雨に歌えば・・」俺のスイングに合わせ口笛が聞こえる.
「雨どころか,このくそ熱い夜にどうしてこんな軽いジャズを.もしかして俺を試
しているのか」挑戦する音を武司も感じたのかアドリブを続けるようにリズムを刻
む.それに爺さんが追って来る.長い長い一曲,拍手が湧いた.気持が舞い上がっ
た瞬間目頭が熱くなる.ハ−モニ−が一致した感動に,音楽を演奏する喜びが溢れ
た一瞬.求めていた音をやっと掴んだ.演奏している者にしか解からない心の融合.
爺さんは次の曲まで間を置いた.その背中に何となく優しさを感じる.
 片付けをしながら黙っていられなくなり
「どうでしたか,今日の俺達は?」
無言は同じだが,ほんの少し首を縦に振った気がする.嬉しくなり武司と顔を見合
わす.
「俺達,何時も勝手してすみません.こう言う者です」出した名刺を見もしないで
ポケットに入れ立ち去った.もっとも眼鏡がないと見えないのかも知れない.

俺達の休暇までもう一度爺さんの後ろに立ったが変わるところが無い.期待したわ
けではないが,物足りなさが残る.

美香と同じ心の窓を見つめ合った夏が過ぎたが,何故か一つ踏ん切りがつかない.
駅前広場に出かけ,没頭できる一時の魅力が決断を妨げる.
美香は何も言わないが,言わないだけに気が重い.

十月の二週目,爺さんの音に精気が無い.気分でも悪いのかと思いながら終わりに
なったが,動きに落ち着かない.
「婆さんがいないよ」武司の声に俺も探した.
「先週はいたのに病気かな」
通勤の途中,爺さんの演奏に出くわす鈴子も
「最近お婆さんの姿見ないわよ」
それからの三回の演奏にも,婆さんは姿を見せない.爺さんの演奏は益々おざなり
になり,音色が冷めて聞こえる.夜の寒気の中に消えて行く後ろ姿にも,何処とな
く寂しさが漂う.

「爺さんから明日来てくれって電話が来た」
遠州特有の木枯らしが吹き始めた十一月中旬,武司が知らせて来た.
初めての事で不安になり四人揃って広場に着くと,既に爺さんは用意を整え,俺達
の顔を見ると静かに弾き始める.
この数週間と全く違う音色は楽器が奏でると言うより,爺さんの心の叫びの様に聞
こえ,俺達は入る時を失った.
童謡にフル−トを奏でた時,爺さんの音は震えるようにか細く泣く.
最後に俺の一番得意な「ベニ−グットマン」演奏しながら胸が詰まり息苦しくなった.
 帰り支度が終わると爺さんから手紙を手渡され,みんなで顔を寄せ合い美香が読む.
「お爺さんのアコ−デオンの演奏を聞いて,母は亡くなった父を忍び,ここへ来るの
何時も大変楽しみにしていましたが,十一月五日,入院先で永遠の眠りに着きました.
母はお爺さんの音色で父に逢えたと喜んでいました.母に喜びと幸せをくださった皆
様に,母に代わって心から感謝いたします.有り難うございました.お爺さん寒くな
る折,身体には呉々もご自愛ください」
俺達は全てを察した.爺さんは婆さんの気持を理解していたのだ.
あの音色は婆さんの人生に捧げた魂だった様な気がする.
「俺は今日を最後にもうここへは来ない.君達の熱意は解かるが,音楽は趣味の限界
を越えてない.もう一つ,アドリブを生かすには音の心を見つめ,知る事が大切だ.
人生も同じ,選び方はそれぞれだが,自分自身をもっと良く知れ.俺みたいになるな!」

置き所のない隙間を埋める様に部室で吹いていると,美香が忍び足で来る.
エレクトーンの伴奏が囁く様に俺の音を撫ぜて取り込む.
突然,美香とのハモリに新鮮な感動が漲った.
「美香,生涯を一緒にハモラないか」
美香の目に溢れた音の心が,一粒の雫になって鍵盤の上に落ちた.    

                               終わり