パース通信広瀬寿武小説集
       作品 弐 愛の恐怖 其の弐                                            

          破滅への行程 

歳末商戦になると機械の故障も増え蒔田の仕事も忙しくなり、残業と出張が続いた。
それでも悦子の機嫌をとる為に顔を出していたが、疲れが溜まると気が重かった。
山口が何となく察して電話に出てくれた。「出張で遅くなります」
三回目の時も上手くいったと手を叩き「飲みに行こう」山口と会社を出てビルの角を曲がった所で、悦子が突然目の前に現れた。
予想もしていなかった蒔田は、狼狽えて訳の解からない事を声にしていた。

「出張から帰るの早かったわね!」
 アパ−トに泊まった蒔田に皮肉を込めて
「嘘も上手くやらないと痛い目に合うわよ。私の感は当るんだから」
 それから時々、寒い夜空の下で待っている悦子に逢った。そんな悦子の姿を見ると腹が立つのも忘れて、愛しささえ感じる。
「寒いのにそんな所で、馬鹿だなア」
 肩を抱いてアパ−トへ急ぐ。
 誰が見ても気になる女っぽさが有り、キャリアを持つ悦子が、木枯らしに襟を立て、忍ぶように待つ。
 蒔田は執着される快さと、執着から来る困惑に振り回されながら、定まらない気持ちを流れに委ねてしまう。
 悦子が計算をして行動していたかどうか定かではないが、おそらく気の昂ぶりを押さえられない、衝動的な行動だろう。気紛れとも思わせる言動が、不安の原因になって蒔田を驚かせ悩ませる。
 
クリスマスの飾り付けが街中に溢れ、夜遅くまで唄声が絶えない。人の流れの中にも浮かれた響きが有る。蒔田は休憩に来た喫茶店の窓から目だけを外に向けていたが、人の流れに気持ちを奪われる余裕は無かった。
悦子がイブの予定を立てて蒔田を縛っている。
昨夜、妻にも「邦男が楽しみにしているから」と予定を聞かれたがはっきり答えていない。子供の寝顔を見ていると嘘が言えない。
「可愛いわね、ねえ、そろそろ良いんじゃない」「何が」「もう一人子供が」
 妻が望んでいたことは知っている。蒔田も一人っ子では可哀相だと思っている。
 蒔田の頭に悦子の顔が浮かんだ。妻の妊娠が知れたら、いや必ず知れる。狂気の怒りが想像された。夫婦に子供が出来ても当然の事だ。だが、悦子にはそんな道理が通じない。 嫉妬に燃えた感情に道理は無い。道理が無ければ思考など働くわけは無い。とくに悦子の気紛れな感情には理解出来ない所が有る。

耳の奥に沈んでいた妻の歓喜が無意識の中に浮かんで来た。
「ねえ、あなた、早く」 
スタンドの照明にネグリジェの中の隙間がないむっちりと合わせた太股を、扇情的に浮き立たせている。厚みの有る腰の肉感的な線には崩れが無い。清純で繊細な容貌に溶けた自然な欲望は蒔田を激しく燃え狂わせた。
 妻の嵐も絶叫を繰り返し、我を忘れて熱く蒔田の名を呼んだ。放出を促し、時を告げ、量を求めた言葉に、陶酔の頂上をさ迷っていた蒔田は到達を止める事は出来なかった。
 短い余韻から覚めた蒔田は、陶酔の休息に目を閉じたまま乳房で息をしている妻の耳に、過った不安を呟いた。
「今日は安全日か?」
満足感からゆっくり潤んだ目を開いて
「私、私、貴方、最高よ。きっと出来るわ、あかちゃん。あの瞬間、身体が感じたもの」

 
グラスに水を足したウエイトレスと目が合った。濃い化粧と口紅の色が崩れを感じさせ、超ミニと太い足のアンバランスにセンスを疑りたくなった。
 その点、妻も悦子も見て楽しくなるハイセンスを持っている。
子供を生んだ事の無い悦子は肌に艶が有り。容姿にも自信が有るらしく、着る物に気を遣う。そしてそれ以上の物が無い程良く似合う。
 妻は。清純な装いが女として持て余した肉体を魅力的に隠し、夜の卑猥な乱れを想像させない。全く違う二人の女の魅力に没頭しながら苦しさが共に行き交う。

 
冷たい水が喉を過ぎて、昨夜、あの後の冷えたビ−ルを想い出した。
妻は絶対子供が出来る、実感が有ると言ったが蒔田にはピンと来ない。女にはそんな不思議な予感があるのかも知れない、確実になった時考えれば良い。それより当面クリスマス、イブの事をどうしようかそれが問題だ。結論を出せないまま欠伸をして席を立った。 

会社に帰ると山口に「風邪が酷く頭痛がするので早引けする、明日は休む。明後日から二日の出張を代わってくれないか」と頼まれた。二十四日、下田泊まり、翌日伊東、熱海を廻り、二十五日はたぶん深夜になる予定。 山口には世話になっている事もあるが、蒔田には渡りに船だ。悦子には会社の理由ではっきり断れる。妻と邦男とは二十三日にイブをやれば良い。妻は必ず納得するが、悦子は解からない。明日の夜「緊急だ」と電話をする計算が出来た。

「緊急の出張だよ、嘘ではない」簡単に信じようとはしない。

「信じないのは勝手だが、夜あそこで待つのは止めろよ、寒いし危険だから」
「良いよ、風邪引いて死んだり、誰かに襲われてもみんな貴方のせいだから」

 
妻に頼まれたケイキを買う気持ちが久し振りに華やぐ。 
邦男にはゲ−ムのカセット、妻にはイヤリングとペンダントのセット。決して高い物ではないが、一緒に買い物に行った時妻が手にして買い迷っていたのを覚えていた。
 直ぐ耳に着け、髪を撫ぜ上げ、ポ−ズをとる姿に幸せを感じた。
 妻は密かに編んだセ−タ−にカ−ドを添え「後で読んで」「どうして?」「恥ずかしいから」「じゃあ、今読みたい」「駄目!」
台所へ逃げた後ろ姿に女の恥じらいが滲んでいた。
「今夜、抱いて!あかちゃんが欲しい!」
「だって、お前、このあいだ何か言ってなかったか?」
「でも、今日の方がもっと確実だもの」
二人だけに通じるときめきが、抱擁の時間を待ち遠しくさせた。
その瞬間から、熱風は激しい炎を上げて二人の肉体を焼き尽くした。
静寂が訪れ長い沈黙が続いた安らぎの中で「きっと、出来たわね」

無言で頷いた蒔田の胸に妻の夢が詩情を描いた。
 
 出張から戻って会社に出ると直ぐ事務の奈美が、凄い剣幕で技術室に入って来た。
「ちょっと、蒔田さん、あの女の人、どうにかしてくれない。頭に来ちゃうわ」
「どうしたの?」
「何時もの電話の女、出張でいませんて言ったら、嘘でしょう、早く呼んでよって言うのよ。いませんって切ったら、二回も又掛かって来たわ。頭に来たから、会社に来て自分で調べなさいよって言ってやったわよ。昨日も同じ電話が来て、真紀ちゃんが出たんだけど、やっぱり怒っていたわ。あんな女と付き合っていると蒔田さんの信用無くなるわよ。余計な事かも知れないけど。奥さん可愛そう!」 奈美がこんなに腹を立てているのだから、会社の皆にも知れてしまっただろう。恥ずかしくていたたまれなくなる。
 悦子にはあれ程言ってあったのに、どうしてと思うと腹立たしいより、情けなくなる。「信用がなくなる、奥さんが可愛そう」
 間違いなくその通りだ、何とかしなければ、決着を着けなければこれからの先に大きな不安が有るような気がする。それでも別れる事は選択の一つにしか過ぎない。
 電話が鳴った。奈美が「三番に、あの女から。怒っているって言ってよ」


「出張って本当だったんだ」
「そうだ、言っただろう。如何して会社に変な電話をするんだ、困るじゃないか」
「どんな電話をしても私の自由でしょう。元を正せば貴方が悪いのよ、時々嘘を言うから。そんな事より、今日来てよ!」
 自分のした事を申し訳ないと思う所か、蒔田の方が悪いと言う。言われた蒔田も嘘を言って騙した事が何回か有ったから、悦子が疑っても仕方がないと我慢してしまう。そうなる事を悦子は初めから解かって話している。二人の間の力関係は、完全に悦子が優位にいる。悦子の破滅的な愛情に支配されている蒔田には、自分の感情の半分も表現出来ない。
 
悦子は顔に枕を抱いて洩れる絶叫を殺そうとるが、全身の反応が枕を飛ばして頂点を示す長い呻きを引いた。
 今夜は泊まる事が出来ない、それを何時、どの様に切り出そうか考えていた蒔田は、行為の間、何処かで冷めていた。貪欲に求め続ける悦子に刺激されても、昇りつめるまで燃え上がらなかった。
 果てずにゆっくり身体を離し一息吸った。
「明日の朝早く出張するから、今日は帰る」 会社は明日から正月の五日まで休みになるが、蒔田と山口は三十一日まで仕事の予定が詰まっている。その代わり代休で九日まで休める。
 明日は掛川と浜松の仕事が有り、そのついでに妻と邦男を乗せて蒔田の実家へ行く。暮から正月の二日まで浜松で、その後、御宿へ行くのがこの二年続いて来た。妻には朝、早めに家を出るから支度をしておくように言っておいた。

「又嘘でしょう、何かおかしいよ」」
「何がおかしい」
「だって、貴方、いかなかったでしょう。私を騙そうとしても駄目よ」
「本当だ、多分七時には戻る。電話する」

「電話じゃ駄目、来なきゃ許さない」
「わかった、来る」
「でも、このまま帰ったら駄目」
「どうして」

「だって貴方、出さなかったから。どうして、奥さんに取っておくため」
「ばあーか」悦子の生き物の様な指に力が入った。「痛いよ、やめろってば」
「出さなきゃ帰さない・・」含んだ悦子の唇が言葉を一緒に飲み込んだ。
 
 七時、既に東名は帰省ラッシュが始まっていた。何時もの倍もかかって着いた実家では、朝食をしないで待っていた。度々来ているので勝手の知っている邦男は、広い家の中を飛び回ってはしゃいでいる。
「来年は五歳だね、余り年が開かない方がいいよ」母が妻の顔に微笑みかける。
「はい、来年はと思っています」
 蒔田を覗いた妻の目には、恥じらいの色が薄く滲んでいた。何時までも清純な雰囲気を持つ妻を、家族の皆が好感を持って迎えてくれる。平坦で穏やかな生活を疑わない無心な表情を見詰めていると、自分で蒔いた災いの種を早く摘み採らなければならない。演技のいらない誠実な生活に戻りたいと胸が熱くなった。
席を立った後ろに近づいた妻は「貴方、何を感激しているの。あの事?大丈夫よ、絶対、妊娠したわ。貴方あの日、凄かったもの」


 
正月までの三日間、病院も休みになった悦子のアパ−トから仕事に出かけた。会社は原則的には休みなので、勤務時間に拘束されない蒔田に、悦子は朝夜問わず欲情の限りをぶつけた。
 こんな事が一週間も続いたら死んでしまうと思いながら、又応じさせられる。疲れた振りをしても蒔田の気持ちなど気にもせず、自分の欲望を満たす事に没頭する。
「好きだなあ、飽きないのか」
「なに言っているの、気持ちが良いって言うから、してあげてるんじゃない。じゃ止める」「うん」「嘘だ!こんなに大きいのに」

 悦子の勝手な思い違いが、蒔田の上に重なって律動の波が始まる。
 その時、気だるい身体が何時もより冷めていた。突然、言いたかった言葉が口に出た。
「俺立ち何時までこんな関係を続けるんだ」 悦子は動きを止め蒔田の胸に腕を突っ張って、不思議そうに見下ろした。
「それ、どう言う意味?」
「いや、ただ、何時までもこんな事をしていても・・・・・」言葉が切れてしまった。
「じゃどうするの、奥さんと別れて私と結婚でもするって言うの?」
「・・・・・・・・・・・・・・」
「貴方には出来っこないわよね、私は良いのよ、このままで。一生結婚して欲しいなんて言わないから」

「違うんだよ、悦子がこのままでは・・、気の毒な気がして」
「あら、そんな心配してくれるんだ。嬉しいわ。でも私がこれで満足しているんだから良いじゃない。それとも私が重荷になった?」
「いや、そんな事はないけど。俺の都合の良い女みたいで、悪いよ」
「あら、それはお互い様よ。貴方は私の都合の良い男。嫌だったらくっついていないわ」
「て言う事は、嫌になったら別れるって言う事なのか」
「それはどうかしら、今はそんな先の事を考えていないわよ。貴方はどうなの?私が嫌になったら、簡単にポイする」
 返事に途惑っていると、芯の深くで捕らえている蒔田を激しく責めた。
「そんな事をしたら、貴方の人生を、メチャメチャ、に、して、やるから」
 荒々しい息を吐きながら、喘ぐように、途切れ途切れだが、はっきり言った。
価値観や生き甲斐の違いが鮮明になると、身をもむような疼きを隠さず、男の助けを欲する悦子が別世界の女に感じる。 
思い切って言ったのに望んだ結論は一方的な激流の中に儚く消えてしまった。
「悦子の愛が冷めるのを待つしか無いのか」
 悦子が昇り、蒔田が果てて完璧な情事が終わったように見えたが、充足し切って眠りに落ち込んだのは悦子だけだ。寝顔に邪気も警戒心も無く、唇が時々僅かに震える。女の妖しい魅力を十分過ぎるほど備え、頭の回転も速く気性も激しい。この女がその気になったら蒔田のみならず、男の多くが操られてしまうかもしれない。終わりの余韻の中に眠る悦子を見ていると、蒔田の背筋に寒々とした恐怖が走った。
                                     続く


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