パース通信広瀬寿武小説集
       作品 弐 愛の恐怖 其の壱                                            
    
    嘘と嘘の間

「投資や投機に高い関心を持つ人が増え、株、不動産の価格が値上がりの傾向に有る」
そんなテレビのニュースに「ふん、俺には縁がないよ」と呟きながら立ち上がろうした時チャイムの音を聞いて、夕食の支度をしている妻を振り返った。ステ−キの焼ける匂いが煙と一諸に、狭い2LDKの部屋の中に充満している。
「貴方、私手が離せないから出てくれない」
 幾つかの料理と、蒔田のバ−スデイケイキが並んでいる食卓を見て玄関へ立った。
「どなたですか」
「蒔田さん、電報です」
 電報なんか大学の合格通知を受けて以来の事だ。何かが有れば電話で用が済むはずなのに電報とは、背筋に緊張が走った。得たいの知れない恐怖が、ドア−のノブを握っていた指先に伝わる。
「祝電です」「ええ」
不安をそのままに、ドア−を半分開く。
「ここに印を下さい」
 引き出しの中の印を探していると、妻が料理の手を休めずに
「何を探しているの」
「印は、何処だ」
「引き出しの二段目、何に使うの?」
「うん、ちょっと、いるんだ」
 如何して途惑ったのか蒔田にも解らないが、一瞬、妻には知られたくない男の予感を感じていた。
 受け取った色付きの電報をその場で急いで開いた。
「オタンジョウビ オメデトウゴザイマス オユワイ デキナクテ ザンネンデス エツコ」
 読み終わらないうちに気が動転して、外に出ようと靴を履きかけた時、妻の呼ぶ声がした。
「貴方、どうしたの。お肉焼けたわよ」
 電報をポケッットに隠そうとしたが、印の事は聞くだろう。混乱した頭では考えが纏まらない。兎に角どうにかしなければと思うと、余計に心臓が高鳴り動転する。
 夢遊病者の様に妻の声に引きつけられ食卓に近付いた。
「あら、祝電なの。誰から?見せて」
 読んでいる妻の顔を見ないようにして、平静を保とうとワインの栓を抜く仕種をしたが、手の震えが邪魔をする。 
「貴方、このエツコって誰?」
 尖った声が耳に刺ささり、固くなっている顔が想像されて唾を飲み込んだ。
「この場だけでも良い、何とか誤魔化さなければ」それだけが頭の中を支配して目まぐるしく回転する。
「飲みに行くスナックのママだよ」
 咄嗟に飛び出した嘘に驚いた。
「スナックのママが如何して家の住所を知っているのよ。おかしい、絶対、おかしい」
 詰め寄った妻の目には疑いと嫉妬が入り乱れて、悲しみをも含んで見えた。
「営業だよ、客を確保する為の。盆、暮れ、子供の祝い事にまで気を遣うらしい。会社の部長なんか、子供の入学祝いが届いたって驚いていた」
 嘘と真実の境目が何処なのか、蒔田にも解らないほど真剣になった。それでも妻は疑いを解こうとはしない。
「誕生日まで知っているのは何故よ。変よ、貴方と関係あるんじゃない?オユワイ デキナクテ ザンネンデスだって。二人でお祝いする予定だったんでしょう」
 涙声をエプロンの裾で拭いながら執拗に責める妻の姿に、蒔田は秘密を白状してしまいそうになる気持ちを必死で押さえた。
「この間、飲みに行った時、誕生日の話が出て、その時は皆でお祝いするから店でやろうと言われていたのを、忘れていた。山口も一緒だったから、今度会ったら聞いて見ろよ。変な気をまわすなよ」
 心を込めての嘘は嘘でなくなり、真実となって蒔田の態度に強がりを誘った。
 真実味を増す為に同僚の山口の名を利用したのは、自分の恥になることを外に出さない妻の性格を計算しての、蒔田の狡さでもあった。  
 何時もの言い争いでは妻の憤りが治まるのを、腹の中で消化しながら待つのだが、後ろめたい気持ちを覆い隠そうと、余計な嘘を並べてしまう。嘘を嘘で固め作られた真実の為、妻に対する罪悪感も薄れてしまった。それが全く無い訳ではないが、それより自分の秘密を知られたくない事に意識が集中して、他の事を考える余裕がない。
 これ迄に、知られた時のことを具体的に考えたことは無いが、何となく危険な予感は常に有った。それでも時の流れに漂っていたのは、蒔田の甘えに似た怠慢な性格のせいでもある。「その時はその時だ、何とかなるだろう」事実この考えで生活も仕事も無難に過ごして来たのだから、深刻に考えない習慣が身に付いてしまっている。
「ママ、お腹が減ったよ、早くケ−キ食べたい」
 五歳の邦男が二人の顔色を見比べて気を遣っているのが、妻にも解かったのか
「ごめんね、お腹空いたよね。さあ座って」 ぎこちなく座ろうとしている蒔田を睨んで
「貴方、私、ちゃんと納得した訳じゃないから、後で話合いましょう」
「話し合うことなんか特に無いけど、お前の気の済むようにしたら」
 子供のお陰で二人の間に柔らかい空気が流れ、蒔田の誕生パ−テ−が始まった。
ワインが空になったころ邦男がケ−キを催促した。
「邦ちゃん、パパにハッピバ−スデ−歌ってちょうだい」
「うん、ママも一緒に歌って」
「ハッピバ−スデ− ツーユ−
ハッピバ−スデ− ディーア パパ・・・・・・・・・・・・・・」
 涙が溢れて流れ落ちる妻の顔を見て
「ママ、如何して泣くの、悲しいの?」
「うんうん、嬉しいの。邦ちゃんとパパと三人で幸せだから」
 蒔田は胸が詰まって妻の顔を見ることが出来なかった。
 妻を裏切って嫌な思いをさせた罪悪感が湧き上がり、苦しさを押さえられなくなった。
「ごめん、お前に心配を掛けて」
 素直に謝ると気持ちが落ち着いた。
「嫌だよ、悲しい思いをさせないで。邦男がいるじゃないの」
「うん、解かっている」

 頭の中では解かっていても、胸の中の秘密は温存したまま解決しようとは考えない。
 これほど妻の心情を肌で感じながらも、男のだらしの無い我儘を持て余している。
「パパ、プレゼント」
 デパ−トの包みの中にはゴルフのティ−シャツ、グロ−ブが入っていた。
「ねえ、着てみて」妻の顔には疑いも嫉妬も一瞬消え、何時もの笑みが見えた。
「似合うわ、良かった。大きさも良いわね」
「お前、何時買いに行ったんだ」
「先週の土曜日、幼稚園の帰りにバスで」
 その日は悦子に誘われてデパ−トで買い物をした後、彼女のアパ−トで夜まで過ごした。下手をすれば妻と鉢合わせをしていたかも知れないと思うと、ぞっとした。
 悦子と街を歩く時はそれとなく気を遣うのだが、彼女が目立つように歩きたがる、と言うより、蒔田の気遣いを知っていて、意地悪をする。
「何よ!そんなに誰かさんが気になるの」
 決して「奥さん」とは言わない。
 蒔田は嫌みを言う時の悦子を余り好きではない。他にも嫌の所は有るのに別れられないで、ずるずると深みにはまって一年近くになる。 悦子は自分の主張が通らなければ機嫌が悪くなり、自分勝手で性格も激しい。何度も別れようと思ったが、彼女の魔性のような性愛に引かれて離れられないでいる。
 今では悦子の方が蒔田に惚れ切っている。それが解かっているだけに余計、別れるのが難しい。別れ話を持ち出したら激しく抵抗して何をするか解からない。気の小さい蒔田には手に負えなくなる。
 このまま続けば妻に知れてしまうのは、目に見えているのに何もしない。
 疑いを忘れた様な顔をして安らぎを与えてくれる妻を見ていると、何とかしなければ妻を傷つけてしまうと、本当に思った。
「何とかしなければ、何とかしよう!」
 その夜、妻は恥じらいを捨てた女の姿を余す事無くさらけ出した。
「私の身体、良い?貴方、満足している?」「もっと、もっと良く見て!」
「ねえ、めちゃめちゃに愛して!」
 潜在していた嫉妬心が、狂おしく燃え盛っているのを隠そうとしない。
 蒔田は技巧の限りを尽くして妻に答えた。
その秘技は悦子の悦びの中で教えられ、会得したものだ。悦子は唇を、舌の動きを、指の触れ方を、結合の姿態の反復を満足するまで飽きる事無く欲求する。
 悦子の肉体は、女の身体を知り尽くした男に依って開発されたのではないか。そして悦子も又その男に、男の肉体の繊細な部分に至まで、愛撫の技術を教えられたのだろうと思う。 
 悦子の技巧は接する度に蒔田を酔わせ、忘れられない世界へ導く 性技の陶酔は悦子の嫌いな部分を乗り越えて、別れられない原因を作っている。  
 妻の技巧は蒔田の教えたものだが、悦子に比べたら問題にならない。
 子供を産むまでは営みを遊戯と思えなかったのだが、産んでからは性の遊びに楽しさを感じ始めた。だがそれは、妻自身の肉体の快感を高める悦びであって、夫を酔わすまでの余裕は無かった。それでも最近は蒔田の要求を拒まなくなり、自分から弄り口に含むのが当たり前になった。
 今夜の妻の高まりは、蒔田に新鮮な女を発見させるほど、狂乱を繰り返した。
 蒔田も我慢の限界を妻に告げた。
「今日は駄目、危ない」
 喘ぎの中で辛うじて言葉にすると、乱れた髪をそのままに向きを入れ替えた。
 妻の唇が蒔田を含んだのと同時に快感の絶頂が頭の芯を貫いた。 
 長い沈黙の間も妻は含んだまま、弄んでいる。安らぎがお互いの心と身体に満ち溢れた。 悦子との終わった瞬間を想った。酔いが覚めると寒々とした感覚に襲われ、肉と肉との間に風が流れ、離れるタイミングを計りながら悦子の動きを待つ。肉体の火花を散らして没頭していた事が、嘘みたいに消えてしまう。
 女の酔いは事が終わってもなお燃え続くのか、覚めた男を離そうとしない。
「帰らないで、泊まっていって」
 蒔田は「帰る」と言えない重い気持ちのまま、夜中になり嫌みを聞きながらアパ−トを出る。泊まる時は予め妻を騙しておくが、それ以外は遅くても帰る事にしている。
初めのうちは悦子も嫌みだけだったが、今では必ず蒔田を困らせる。それが徐々に激しくなり、我儘を通し、妻に対抗するようになって来た。
 今日の電報も悦子の意地悪な自己表現そのものだ。困惑する蒔田の事など、全く考えていない。
 妻が蒔田の胸の上に顔を乗せて眼を覗く様にした。蒔田も見た。夫婦の間だけで通じる信頼の視線が重なった。妻は胸の中に詰まっていた想いを、肉体と共に蒔田に思い存分ぶつけ、吐き出してしまった満足を感じて眼を閉じた。
 蒔田は明日、悦子に逢ったら何んと言おうかと考えている内に、何時の間にか寝てしまった。


 蒔田は芝浦に有る工業大学を出ると、ギタ−同好会の二年先輩に推薦され、現在の会社に入社して十年目になる。
 厚木の工場で半年の研修を受け、池袋支店で一年半、何とか一人前になったと認められて広島へ転勤、四年の後、静岡に来た。静岡支店の技術者の1人が急に退職した為、浜松出身の蒔田に声が掛かった。
 会社の業種はヨ−ロッパで製造されたキャシャ−、所謂レジスタ−や計算機類の輸入、販売会社。業界でも大手で国内の三十%をシェア−している。外国資本が導入されている合理的な経営方法は、蒔田の肌に合っているのか居心地が良く、働き甲斐を感じている。待遇も友人達と比較して、悪くはない。五百人足らずの社員が、国内全土に配置されているので、社内環境に複雑さが無く、人間関係に気を遣わないですむ事も気に入っている一つだ。
 蒔田の仕事はセ−ルスエンジニャ−、機械に関係する全て、取付け、調整、修理が主だが、機械に精通している事でセ−ルスするのも重要な仕事になっている。蒔田は口下手ではないが、口先で売れる物でもない。客、販売先の内容を研究、把握し、デ−タ−を示して、経費及び時間の節減、数字の正確な把握、デ−タ−を基にした経営戦略、等々を理論的に説明する。数百万もする機械を売るには、機械のもたらす効果を具体的に納得させなければならない。最近では買う方から具体的な注文をしてくるようになって販売が楽になった。大手のス−パ−やデパ−ト等は本社が一括販売するが、アフタ−サ−ビス、修理は各支店が受け持つ。技術者が二人しかいない静岡支店では曜日、時間に関係なく蒔田の仕事は忙しい。土曜、日曜より商店の休みになる火、水曜日は特に忙しく、深夜になったり徹夜することも良く有る。翌日の店の開店前までに機械を修理、点検、搬入をしなければならない。
 結婚して七年になる妻は勤務内容を理解しているので、心配したり会社に電話をしたりすることがない。それを良い事にして仕事を適当に済まし、悦子のアパ−トへ直行する。 そうする事で悦子の機嫌を取って置くと、一週間が無事に過ぎる。だが一端このサイクルが変わると、悦子の風向きは変化して吹き荒れ、蒔田に歯を剥き出しにして噛みつく。 
蒔田の誕生日は火曜日。悦子は前々からその日の為に準備をして、病院の薬局を早引きすると言っていた。ゴルフのパタ−を買って有るのも蒔田は知っていた。 
 妻と結婚して以来、約束事の結婚記念日、二人の誕生日は欠かさず守って来た。それに今では邦男の誕生日も加わった。その事を知っている同僚の山口が火曜日の仕事を引き受けてくれた。幾らずぼらな蒔田でも、同僚と妻を裏切れる程の図々しさは無かった。
 悦子には恐る恐る「出張する」と電話で断ったが、以外とあっさり納得したので胸を撫で下ろした。悦子の怒りがどんな形で表れるか緊張していただけに、一寸、気が抜けたほどだった。

 浜松から伊豆、熱海までの広い範囲を支店長以下五人の営業と技術二人、二人の女性事務員だけなので全員フル稼動している。
 九時、支店に出ると事務が二人とも電話の応対中で、他に誰も来ていない。黒板には出張、直接近郊へ回る者の予定が書いてある。
山口のメモには、修理した機械を搬入、その後、二店に寄り、直帰、修理依頼の店名が書いてあった。
 毎週月曜日の朝のミ−ティングを除けばそれぞれの予定で行動をする。連絡事項が有ればポケベルで伝える。効率を考えての事だが、いきおい事務員の仕事が忙しく、責任重大になる。くだらない私用の電話は忘れられてしまうこともあるが、文句を言う訳にもいかない。蒔田も何本かの電話を受け、急ぐものは営業のベルを鳴らして伝えた。

 手の空いた事務の奈美がお茶を持って来て
「昨日の三時頃、女の人から電話が有ったわ。今日は直帰しますので用件が有ったら伝えますといったら、結構ですって切ってしまったわよ」
 悦子だ。納得したと思っていたのに、腹の中で疑っていたのだ。嘘を言われた腹いせに電報をうったのだ。
 自分の甘さを恨めしく思ったが、まさか事務員に口止めする訳にもいかない。
「まあ良いや」舌打ちをしながら機械室で山口の残した仕事に手をつけた。 
昼食の時間になったが、微妙な部分の修理の最中だったのでそのまま続けていると、内線に電話が回って来た。
「三番に外線からです」
「もしもし、蒔田です。もしもし」
公衆電話らしいが雑音だけで返事がない。だが瞬間にして悦子だと感じた。
「もしもし」何も言わない。「悦子か?」
その途端「ガチャン」電話が叩きつけられるような大きな音を出して切れた。
 蒔田は受話器を置くのを暫く躊躇った。又必ず掛かって来る、その時の対応を頭の中で組み立てる時間が必要だった。しかし考えた所で悦子の激情に負けてしまうのが落ちだ。 言い訳の通じる女ではないのを最近解かって来た。それにしても如何してこんなにオドオドするのか、蒔田は行き場の無い自分の気持ちを情けなく思った。
 ユ−ザ−に対しては理路整然と説明出来るのに、悦子には如何しても気持ちをはっきり言えない。性愛への断ち切れない未練が、理屈を超えて感情を支配してしまう。
 怖さも有る。恐怖と言うものと少し違うが、今まで感じた事の無い不安が胸の中に渦巻く。 平和だった夫婦愛を、目に見えない所で破壊されそうな漠然としたものだが、確かに怖い。それを感じ始めたのは電話だ。
 仕事の忙しいのと気分の乗らない事も重なって、数日悦子の部屋へ顔を出さず連絡もしないでいると、決って夜中に無言の電話が来る。
「変態の悪戯だろう」と妻には言ったが、蒔田には悦子だと確信に近いものが有った。


「夜中に電話するの止めろよ」
 悦子の欲望を嵐の中に沈め、豊満な乳房を波打たせて陶酔している余韻の消えない内に、耳元で甘く囁いた時「あら私、知らないわよ。でも嫌だったら電話の来ない様にしたら」
「どうやって」
「そうね、きっと電話する人、寂しいのよ。私、解かるなア。私だって夜中に貴方の事を想うと電話したくなるもの」
 悦子は「私よ」と直接的な表現をしないが「私です」と言う気持ちを敢えて隠そうとはしなかった。
 狂おしく悶える姿態を見せ、あられもない絶叫と共に強烈な感覚に到達した後の気怠さが、悦子を素直な女に戻していた。
「夜中の電話は怖いよ、殺したくなる」
「きっともう来ないと思うよ」
 だが其から二回、同じ事が有った。妻は電話番号を変えようと言って怖がった。
 
もし今日このままで、悦子と逢わなければ又妻を怖がらせ不安を抱かせる。
電話が来たら逢って言うべき事は言おうと腹が決まった。
 ベルが鳴った。落ち着いて息を深く吸う。「もしもし」「あらどうしたの気取って、修理の依頼です」奈美の声に慌ててしまった。
 悦子からの電話が来ないまま、出向いた先の修理も一時間ほどで終わった。四時に近い。「そうだ、病院へ寄ってみよう」
 悦子は労動組合経営に依る総合病院の薬局の薬剤師をしている。高度な専門教育を受けた、キャリヤウ−マンの肩書きを持っているが、特に悦子に関しては、肩書きと女の性とは無関係だと蒔田は思っている。
 四時を過ぎた病院は一般往診が終わっているため、静まり返ったド−ムの様だ。消毒薬の匂いと人の忍び声、看護婦の床を擦る足音、どれもが不健康な感じがする。病院と言う先入観がそうさせるのか、死と隣り合わせているような寒々とした気分になる。
 薬局には既に厚いカ−テンが引かれ、中の様子は解からない。ベンチの一番後ろに座り、何時出て来るとも知れない悦子を待った。
 
 この薬局内で悦子と始めて出会ったのは、一年以上も前の四月上旬だった。駿府城の桜が満開を過ぎて道路を舞っていたのを覚えている。
 複雑な計算機能を備えた機械の調整のため使用しなくなる四時に薬局に入ると、悦子が白衣姿で待っていた。
「時間かかるの?」
「三十分位だと思います」「そう」
 側で物珍しそうに見ている顔には華やいだ若さは見られない。だが目の流れに熟した女の艶が見え隠れするのが気になった。
 身体の線は白衣で隠されているが、腰の丸みと胸の膨らみは多くの経験を誇張している様に見えて、蒔田の興味を刺激した。
「すいません、少し時間がかかりそうです」「良いわよ、気にしないで」
 座った膝が、割れた白衣の下のスカ−トから食み出し、深くに覗く扇情的な太股の白さに疼きを覚えた。
 一瞬、目と目がぶつかって女の目が笑った。
「この女は取り澄ました顔で、俺の心の乱れを楽しんでいるのではないか」

 蒔田は女に見縊られた様な気がしたので、故意に無視する態度を取った。
「遅くなってすいません」口先だけで謝りながら片づけを始めた。
「貴方、まだ他に仕事が残っているの?」

「どうしてですか?」
「別に理由は無いのよ、お茶でも飲みにいかない?私一人だから、食事には早いし」
「今日は駄目です」差し支えなど無かったが 蒔田は何故か断る気になった。
「今日が駄目って、明日なら良いって言うこと?」暫く考えるふりをしてから
「明日、何時ごろですか」
「じゃ、何時ならいいの?」
「七時なら何とかなります」
「じゃ、七時、喫茶ボンで、知ってる?私がご馳走するわ。私、牧田悦子。よろしく」
「え!まきた?俺も蒔田、どんな字書くの」「牧場の牧に田んぼの田」
「俺は蒔の木」
「同じ名前なんて偶然ね、縁が有るみたい」
 こんなことが有って、始めての出会いを良く覚えている。

 四時半が過ぎた頃、薬局から数人が固まって出て来た。続いて悦子が同僚と話ながら姿を見せた。遠くで見ても悦子のかもし出す肉体の魅力は完成されたア−トを感じさせる。 その上、蒔田だけが知っている悦子の卑猥な蠢きが妄想を掻き立てて、気持ちが乱れるのを覚えた。
 悦子の視線を待って目を据えた。足が止まって首をほんの少し曲げた。視線が絡んだ。確かに蒔田を意識したのに、意地の悪い意固地な後姿を見せて事務所に消えて行った。
 蒔田はこのままここで待とうか帰ろうか迷ったが、結局もう少し時間を掛けてみることにした。見えない所でこちらの様子を窺っているに様な気がしてならない、怒っている態度を見せてはいるが、実は気になっているのに違いない。そうに違いないと、変な確信が腹の角を突付いている。
 直ぐ後ろに有るコインボックスからコ−ヒ−を出して、栓を外した拍子にズボンを汚してしまい、ハンカチで飛び散った染みを拭きながら苛立ちを覚えた。
 ここえ何しに来たのだろう、電報で家庭を掻き回され、腹を立てているのは自分の方なのだ。怒りたい気持ちを抑えズボンまで汚して、それでも何も言えず、ただ悦子の機嫌だけを気にしながら想像する。「馬鹿みたいだ」と、蒔田は自分が情けなくなる。
 コ−ヒ−を口に含み、如何してこんな事になってしまったのだろうか考えるでもなく想い返す。
 
悦子と出会って初めは月二回ほど、喫茶店で、その内、週一の割りで夕食になり、夏の始まりには、飲んでから悦子のアパ−トへ誘われるまでになった。蒔田の方から誘ったり、連絡をしたりしたのは殆ど無い。全てが悦子の思いに任せ進んで行った。だからと言って蒔田に下心が無かった訳ではない。
 寧ろ逢う度に肉体が熱くなり押さえるのに辛さを感じていた。それでも深くえ進めなかったのは、悦子の強引な性格と時々見せる陰の部分の秘密めいた所に、不安を感じていた。
 悦子は蒔田に結婚しているのか、子供は居るのかと聞いた事が無い。蒔田も又話題にした事は無い。敢えて隠したり、話題から逸らした訳でもない。悦子がそのことに全く関心を示さなかった。
 蒔田にも二、三の女との関わりは有ったが、誰もが結婚の内容を知りたがった。

 その経験から推し量っても悦子は変った女だと思っていた。
 
妻は八月に入ると直ぐ、千葉の御宿の実家に子供を連れて帰った。妻の実家はホテルに間違えられる様な、大きな民宿をやっている。夏の忙しさは大変なものだ。結婚してから毎年、夏は実家の手伝いに帰る。広島に居た時は一カ月も帰って来なかった。慣れているとは言え、疲れて帰っても妻と子供のいない寂しさは、気持ちを癒せないだけでなく、時間をも持て余してしまう。
 妻が実家へ行って二日目、盆休みの相談をしたいからと、悦子から電話が有った。それに夕食は私が作るからと付け加えた。
 妻のいない自由に寂しさを忘れ、甘い危険の予感に引きつけられた。
 仕事は七時半には終わったが、期待する気持ちと反対に、直ぐ支度をするのを躊躇った。 理屈の付かない見栄が、落ち着きの失っている蒔田の背筋を擽る。
 立ったり座ったり、雑誌のペ−ジを捲ったり集中出来ない時が流れ、時計の針を追いながら会社を出たのは、八時半を過ぎていた。
 静岡大学の古い校舎が暗い波を重ねる様に連なっている。
 道を挟んだ向かい側の、夏虫が競い合って鳴いている小高い雑木林を過ぎると、重々しく閉ざされている臨済寺の門が有る。傾斜になった高くの木陰からは、僧侶の佇まいを示す灯が浮かんで見える。
 家康が子供の頃に人質として住んでいた面影が、夏の星空の下にそのまま残って時が止まったままだ。だが、人間はいとも簡単にロマンを忍ぶ環境を崩してしまう。
 今様のアパ−トが色とりどりの顔を見せて並び、窓の明かりはその明るさの為、歴史の持つ重さを消してしまっている。
 この場所のアパ−トを選んだ理由を聞いた時「アンバランスの環境が面白い、静かなようで結構人の騒めきが有る。大学が近いのでバス便も買い物も便利だ」
 蒔田は通勤に営業車を使っているが宣伝が派手に書かれているので、私用で使う時には駐車するのに気を遣う。
 雑に整地されただけだがアパートの駐車所は、気楽に置けるスペースが十分有る。
目立たない所へ止めて降りようとした時、後ろから車のライトに照らされた。急いでドア−を閉めて、その車から降りた男女をやり過ごした。じっとしていると秘め事への期待に後ろめたさを感じた。
 悦子の部屋のカ−テンに姿の揺れが見えた。辺りに気を配り階段を一気に上る。
「何をしているの、早く入って。駐車したの知ってたわよ」
 ドア−の開いたのと同時に蒔田が滑り込むと、エアコンの適度な冷気が汗ばんだ身体を撫ぜた。
「遅かったわね、外まだ暑いでしょう、凄い汗。シャワ−浴びなさいよ。それから食事にしよう」
 返事を期待していない言葉が蒔田を誘導する。蒔田も又逆らわずそれに従う。
 蒔田の身体には途惑いと、ときめきが複雑に交差しているのに、悦子は慣れた落ち着きを見せて当然の様に振る舞う。
 シャワ−の湯煙の中で熱い気持ちを沈めようと思ったが、肉体が勝手に反応して治まらない。
 悦子はノ−スリーブのミニのワンピ−スに前掛けをしていたが、腋の下から乳房が零れて見えた。それに後ろ向きに屈んだミニの奥は豊かな割れ目だけだったような気がした。
 「あれは悦子の挑発ではないか」淫らな想像が身体の芯を刺激して留まらない。
 悦子が湯煙の抜ける間から顔を出して「長いわね、何しているの」
 声に慌てて背を向け「直ぐ出る」上擦った気持ちを誤魔化そうと湯を一杯に出した。
 バスタオルを腰に巻いたまま脱いだ物を探したが見つからない。
「俺の着る物、何処」
「ああ、下着とシャツは今洗濯している。ズボンは明日の朝アイロン掛けて上げる。其処に有るバスロ−ブを着て」

・・明日の朝?・・蒔田もそうなる事を想像しなかった訳ではないが、悦子は明確に蒔田が泊まることを前提にしている。
 妻が居ないことを悦子は知らないはずなのに、蒔田の都合や家庭の事など眼中に無い振舞をする。
 考えて見ると全てが悦子の計画通りに用意されている。
 バスロ−ブも男物だ。洗濯屋に出したのだろうが、以前に手を通した跡が有る。
 今までの付き合いで本能的に感じていた不安が、ふと、顔を覗かせた。
 だが、悦子の計算された効果的な挑発に、残酷なまでに打ちのめされた蒔田は、そのことを不安に感じて、深く考えるほどの余裕は無かった。
 無責任な男の遊び心が目の前の新鮮な刺激を求めて、唯々、嬉々としている。  

 悦子が剥き出しになった両腕を蒔田の首に巻きつけて、それは、始まった。
 当然の様に始まった気紛れな関係に、理屈も思考も無い。共通する何かが有るとすれば、それは男と女を意識することだけだ。
 愛を探すには余りにも刹那的だ。恋の甘さは何処にも無い。
 直接的で動物的な、抱きたいと言う一途な欲望が全ての思考を飲み込んでしまった。
 悦子は舌と指の愛撫で、蒔田の肉体の隅々まで魔法の呪文をかけた。快感の繰り返しの中で蒔田も又、その呪文を読み取って、背中に、腰に、肛門に、止まらず流れが続く快感の筋道を記憶して行った。
 蒔田はソ−プの遊びで知ったサ−ビスに満足した思いがある。だが悦子のは違う。
 愛撫の技巧も長けているが、悦子の行為は常に自分の欲望を満たす為の手段なのだ。自分の為に激しく没頭する自然な営みは、これまでに得た事の無い刺激と興奮で、蒔田を陶酔させた。
 「私にもして」この間、言葉らしい言葉を初めて聞いた。
 蒔田は余韻の中で、悦子の呪文と記憶の筋を辿った。
 命令が有った。頷いて誉める、呻いて叫ぶ中で何度も痙攣を繰り返す。舌に疲れを覚え休みたくなったが、許さない。新たな命令を首に絡めた太腿で伝える。
 飽くことのない狂乱が限りなく続き、新鮮な姿態の刺激に放出の予感を何度も感じたが、悦子は許さない。許されたのは悦子の強烈な欲望が煮え滾って恍惚となった瞬間だ。

 真夜中だろう、時間は解からない。悦子の唇の中で力が漲って目を覚ました。


「寝てて良いのよ、私が勝手にするから」
 蒔田は上向いたまま悦子に任せていたが、悦子が爪を立て蒔田の胸に体重を乗せる迄の時間を長く感じた。
 蒔田は果てないまま、眠りが深くなって朝まで目覚めが無かった。
 夏の太陽がカ−テンを割って眩しさに目を覚ましたのは蒔田が先だった。
 無造作に投げ出された白い裸形が、陽の光の中で黄色い光沢を帯びていた。乳房の陰の透き通った肌が、昨夜の狂女を想像させない程美しく見えた。愛も恋も無いのに、それを錯覚させる魔性を持っている。
「何見ているの」「・・・・」「良く見て」
 目映い光かりの中で魔女の挑発が蒔田を刺激した。
「すごーい、元気がいい、すてきー」悦子の唇の中で果てた快感は、暫く立ち上がる事が出来ない程、強烈な感覚を刻んだ。



 
病院の側で車から降り際「今夜、奥さんを抱いたら駄目だよ」
 妻のことを口に出したのは初めてだったので、驚くより不思議に思う方が先だった。
「大丈夫だよ」「今、居ないから」と言いそうになって飲み込んだ。
 出前で夕食を済まし、残業をして家に帰ると締め切った部屋の中は蒸れていた。エアコンを付けて、温いシャワ−を頭から浴びた。タイルに流れる水音を聞いていると、昨夜の事が鮮明に浮かんで来る。
「悦子は今頃、何をしているだろうか。もしかして、男が‥‥」

「行って見ようか」そう思った途端、行く事しか考えられなくなった。十時半までには着く。 
 アパ−トに着いた時、欲望と嫉妬の黒い塊に支配された身体には震えが有った。
 驚きと嬉しさを情熱的に表現する悦子の美肉の味に耽溺して、その夜も深く溺れた。
 妻の居ない間、悦子の肌を垣間無く貪る夜が続いた。
 盆休みには妻の実家へ行く約束をしていたが、悦子の強い我儘と肉体の挑発に押し切られ、欲望の密室から脱け出す力を失っていた。
 そうして続いた魔性の性の欲求は、妻が戻ってからも当然のように追いかけて来た。

 蒔田の環境の都合なんか意に介さない「貴方の都合なんか私には関係がない。だから私は私のしたいようにする」と悦子は恰も正当性を帯びているかの様に主張する。
 アパ−トに泊まった何日かの間、蒔田が妻を顧みない男と錯覚したのか、強く迫れば折れる男と見定めたのか、その両方かも知れないが、確実に蒔田を自由に操り始めた。
 ある日、悦子は思うがままに欲望を満たした後「愛している」と潤んだ目で呟いた。だが「愛してくれ」とは言わない。「愛しているか?」と聞かれても蒔田には返事が出来ない。
「愛しているんだから、貴方の子供を産もうかな」蒔田は驚いた。
 この心配は何時も有ったが、薬剤師の悦子が「ピルを飲んでいるから心配無い」と言うのを信頼して、蒔田自身処置をした事はない。
「妊娠したのか?」
「したかもしれない」
「大丈夫だって言っていたじゃないか」
「困る?」
「当たり前じゃないか」
「嘘よ、一寸、貴方を確かめたかったの。もしも子供が出来たら私産むからね。でも心配いらないわよ、貴方に迷惑掛けないから。子供は私が一人で育てる」
 悦子が口で何と言おうとも、そんな事になれば悦子の事だ、絶対、大事になる。
「脅かすなよ」
「貴方が私の気持ちを大事にしてくれないと、本当にそうするかもよ」
 このままでは何時か思い悩む時が来るかも知れない不安は大きい。それでも離れられないのは、性愛の魔力の他に考えられない。
今まで何度も際どい危険を経験しながら、妻と悦子の間を擦り抜けて来たのは、蒔田の悦子に対する馬鹿げた忍耐が有ったからだ。
 魔性の魅力は、どんな我慢をも蒔田にさせる狂気を秘めていた。
 

 
五時がとうに過ぎたが、悦子はまだ姿を見せない。
看護婦が二人、怪訝な顔をして蒔田の前を通り、もう一度振り返った。二人とも若さが匂う様な跳ねた感じだが、二十七の悦子の腰と比較すれば色気で劣る。

「何よ、色目を使って」
 何時来たのか悦子が後ろから強い調子で声を掛けた。
「ずいぶん待ったよ」怒りを腹に隠して、媚びる気持ちが顔に出てしまう。
「奥さんとご一緒に、誕生日のお祝いが出来て、お幸せでしたこと」
 蒔田は敢えて言い訳をしないで、次の言葉を待った。
「嘘を言われた私の気持ち解かる?」
「解かるよ、ごめん。その代わり今夜泊まるから。何処かで待ち合わせて食事に行こう、出来るだけ早く仕事を終わらせる」

 如何してこうなるのか、考えてもいなかった結果になってしまう。だが悦子の機嫌を直すにはこれしかない。成り行きとは言え、自分の意志をはっきり言えない歯がゆさが、依然残ったままだ。
 悦子は渋々承知をした様に見せたが、気持ちにはしゃぎが出ていた。
「家で食べよう、支度して置くから」
 結局、電報の件は言わず仕舞いになってしまった。こうして何時も肝心な事を先伸ばしにしてしまう。
 悦子が自分の勝手な意志を通してしまうのは、それをさせる蒔田に原因が有る。解かっている。だが理屈よりも、内側に潜在する扇情的な感情に支配されて、どうにもならない。
 妻に電話を入れた。嘘と裏切りは数を数える事が出来ない。
 昨夜、妻との熱い遊泳は肉の律動だけではなかった。心の調和がお互いのうねりを炎に変えた。余韻の中で閉じた睫毛が僅かに震えているのを見て、妻の信頼を心に刻んだのに。 決意は決して嘘ではなかった。だが、こうも簡単に崩れ、又しても妻を悲しませる裏切りを重ねてしまう。危険も罪悪感も薄れて、ただ有るのは、その場を凌ぐ一時の誤魔化しだけだ。

 自分の心の中を確かめた訳ではないが、今でも妻を愛していると言う熱い実感を肌で感じている。

 純粋な恋を実らせてやっと手に入れた妻は、自分にとって過ぎた女である事も十分解かっている。
 
妻を紹介してくれたのは、蒔田を会社に引き入れてくれた先輩の、歯科医をしている恋人だった。
 先輩は家の都合で一年働き、入学してからも生活費を得るため二回留年した、頑張りやであると同時に、苦労人でもあるので皆から親しまれ人望があった。
 それでも個性的な美貌と、インテリを鼻に掛けない、キャリアを持つ歯科医が恋人だとは、信じられない出来事だった。
 それは蒔田の知る、先輩の回りの人達にとって羨望に似た驚きでもあった。  

「私には職業だの、財産なんか関係ないの、この人と居ると本当の自分でいれる。気取りも構えもいらない。一番ほっと出来る」
 甘えを隠さない、インテリに想われる先輩が羨ましかった。
 彼女の勤める歯科室は上野のデパ−ト内にあり、歯科医八人、助手の衛生士が十人。
「医院長の趣味で女の子は美人ばかりよ、その上、私の助手は良く気が利く。典子さんを紹介してあげる」

 蒔田は女にもてる方では無かったが、それでも性の処理に煩わされる事は無かった。 街にふらついている女子高生や、遊ぶ為に学校に籍を置いている様な女子大生が相手だった。蒔田が積極的に求めたと言うより、女の側に拘わりの無い好奇心が有った。
 男にとって都合の良い女達は、裏を返せば女達にとっても都合の良い男なのだ。
 自惚れが有った蒔田は、そんな事を考えられるほどの大人では無かった。
 今でもそんな女の何人かと、何方からともなく連絡を取り合っているが、ときめくのは抱き合うまでの一瞬。事が終われば何も無かった様に背を向けて立ち去る。
 典子に逢った瞬間に、強い衝撃を受けた。容姿や美貌より典子の持つ雰囲気に、別世界の女を感じた。今までの女には無かった眩しい煌めきが、説明の付かない慕情を掻き立て、初めての純粋な想いに途惑った。
 手を握るのに半年、唇を合わせたのはそれから半年もたった。
 蒔田は純情な青年を演じた訳ではない。身体の熱さは苦しいほど有った。だが、恋の感激が気高い清純な典子を創造し、自分で自分の感情を縛り付けて考えられないほど臆病になってしまう。
 複雑な愛の感情に悩みながら、理屈の付かな緊張したデイトを重ねた。
 唇の触れ合いから、歯が僅かに開き、舌が恐る恐る求めて来た頃、典子のキスに愛情が滲んで伝わって来た。

 広島転勤の内定が蒔田に結婚を決断させた。「両親に逢って」

 御宿に向かう途中、頭に刻んで置いた言葉が、緊張に震えて出て来ない。
 それでも真剣な気持ちだけは伝わった。
 幸せな興奮に華やいだ帰り道、典子をもっと深く自分のものにしたい衝動にかられた。
 ディズニ−ランドの観覧車がゆっくり回っている後ろに、大きなホテルの影が見えて来た。
 無言でインタ−を出た。
「あら、何処へ行くの?」

「ホテルへ行く、今俺は最高に幸せだ。典子を抱きたい。嫌なら嫌と言ってくれ」
 頭に上った血が噴き出しそうになるほど沸騰して、気持ちが上擦る。
 エレベ−タ−が八階で止まった。何も言わず寄り添っている典子の背中を押すと、震えた身体が重かった。それが恥らいと不安を含んだ典子自身の抵抗のように思えた。
 
 処女の苦痛に声を漏らすまえと我慢していたが、耐えきれず泣き声を言葉に交ぜて吐き出す。
 典子と唇を合わせた時から「もしかして」と思いは有ったが反面「こんな良い女が」と信じがたい気持ちも有った。それに今時と、大して期待もしていなかった。
「私、初めてなの」蒔田の胸の中で身体を丸め甘い溜め息をつきながら、女の決別に満足の涙を流した。

「ず−と愛してくれる」
 やっと手に入れた女を生涯大切にしようと、自分に言い聞かせたのはこの時が最初だった。  
 
あれから何回、同じ事を繰り返して来ただろう。その度に罪悪感が薄れ、嘘を嘘と思わなくなってしまった。嘘だけで誤魔化せる内はまだ良い。
 今までに通り過ぎた女は自分の中で処理が出来た。だが悦子の愛には「もし私の思う様にならなければ、何をするか解からない」と言う脅迫の危険がついて廻る。この破滅的な激情が何時、蒔田の家庭に災いするかと恐れながら、いや、怖いからこそ悦子に諂い妻に嘘を言う。
                                続く


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